現代文
情報化社会における「知」の変容と身体性の喪失
難しい
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現代文
情報化社会における「知」の変容と身体性の喪失
難しい
指先の知、失われる身体
[1] 我々の指先は、今や世界中のあらゆる情報に触れることができる。検索窓にキーワードを打ち込めば、瞬時に膨大な知識がディスプレイに表示される。このデジタル・アーカイブへの無限のアクセスは、人類の知のあり方を根底から変革した。かつて「知る」という行為が、書物を渉猟し、師に問い、フィールドワーク【注1】に赴くといった、時間と身体を投下する営みであったのに対し、現代のそれは、ディスプレイ上の文字列を効率的に「処理」する作業へと変貌しつつある。
[2] この変貌の中で見過ごされがちなのが、「知」の質的な変化である。身体的な経験を伴って獲得された知識は、単なる情報の集合体ではない。それは、五感を通じて得られた感覚的な手触りや、試行錯誤のプロセスで刻まれた実感、そして他者との対話の中で育まれた多角的な視点を含んでいる。例えば、植物図鑑で花の形態をデータとして知ることと、実際に野山を歩き、その花の質感や香りを体感し、土の匂いと共に記憶することとでは、得られる「知」の深みが決定的に異なる。前者が抽象的で断片的な「情報」であるとすれば、後者は傍線部①個人の生きた経験に根差した「知恵」とでも呼ぶべきものだ。
[3] デジタル情報への過度の依存は、この身体性を伴う「知恵」の領域を痩せ細らせる危険をはらむ。指先一つで答えが手に入る環境は、私たちから問い続ける粘り強さや、答えのない状況に耐える思考の持久力を奪いかねない。検索結果の上位に表示される、誰かが要約した「正解」らしきものを鵜呑《うの》みにし、自らの頭と身体で考えることを放棄してしまう。その結果、私たちの知識は、傍線部②表層的で均質化されたものへと劣化していく。誰もが同じ情報源から同じような「正解」を引き出す世界では、独自の視点や創造的な発想が生まれる土壌は失われていくだろう。
[4] もちろん、デジタル・アーカイブの恩恵を否定するのは、時代錯誤というほかない。その圧倒的な利便性と情報へのアクセシビリティは、知の民主化に大きく貢献した。問題は、私たちがその利便性におぼれ、知の獲得様式をデジタル情報処理に一元化してしまうことにある。重要なのは、二つの「知」の様式を対立させるのではなく、それらをいかにして統合し、往還するかである。
[5] デジタルで得た情報をきっかけに、実際にその場所を訪れてみる。文献で学んだ理論を、自らの手足を動かして実践してみる。そうした身体的経験を通じて得た実感や疑問を、再びデジタルの広大な海へと持ち帰り、異なる視点と照らし合わせる。この指先から始まる「知」と、足元から始まる「知」との間の、絶え間ない往復運動の中にこそ、情報化社会における真に豊かな知のあり方が見出せるのではないだろうか。
【注1】フィールドワーク:研究対象となる場所や人々の元へ直接赴いて行う調査・研究活動。
資料:大学生を対象とした学習方法に関するアンケート調査(複数回答可)
質問:レポート作成や試験勉強の際、あなたは主にどのような方法で情報を収集し、学習を進めますか?
| 順位 | 学習方法 | 回答率(2015年) | 回答率(2025年) | 増減ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 1 | インターネットでの検索(検索エンジン、百科事典サイト等) | 85.2% | 98.5% | +13.3 |
| 2 | 授業で配布された資料・レジュメの確認 | 78.6% | 82.3% | +3.7 |
| 3 | 図書館で専門書や関連書籍を探して読む | 65.7% | 40.1% | -25.6 |
| 4 | 友人・知人とのディスカッションや情報交換 | 55.4% | 38.6% | -16.8 |
| 5 | 担当教員や専門家に直接質問に行く | 25.1% | 8.9% | -16.2 |
| 6 | 関連する施設への見学や、実験・観察を行う | 15.3% | 4.2% | -11.1 |
傍線部①「個人の生きた経験に根差した『知恵』」とは、どのようなものか。本文の趣旨に照らして最も適切な説明を一つ選べ。
傍線部②「表層的で均質化されたものへと劣化していく」と筆者が懸念するのはなぜか。その理由として最も適切なものを一つ選べ。
本文で筆者が懸念している「知」の変容について、資料のアンケート結果から読み取れる状況として最も適切なものを一つ選べ。
本文の趣旨として最も適切なものを一つ選べ。
指先の知、失われる身体
[1] 我々の指先は、今や世界中のあらゆる情報に触れることができる。検索窓にキーワードを打ち込めば、瞬時に膨大な知識がディスプレイに表示される。このデジタル・アーカイブへの無限のアクセスは、人類の知のあり方を根底から変革した。かつて「知る」という行為が、書物を渉猟し、師に問い、フィールドワーク【注1】に赴くといった、時間と身体を投下する営みであったのに対し、現代のそれは、ディスプレイ上の文字列を効率的に「処理」する作業へと変貌しつつある。
[2] この変貌の中で見過ごされがちなのが、「知」の質的な変化である。身体的な経験を伴って獲得された知識は、単なる情報の集合体ではない。それは、五感を通じて得られた感覚的な手触りや、試行錯誤のプロセスで刻まれた実感、そして他者との対話の中で育まれた多角的な視点を含んでいる。例えば、植物図鑑で花の形態をデータとして知ることと、実際に野山を歩き、その花の質感や香りを体感し、土の匂いと共に記憶することとでは、得られる「知」の深みが決定的に異なる。前者が抽象的で断片的な「情報」であるとすれば、後者は傍線部①個人の生きた経験に根差した「知恵」とでも呼ぶべきものだ。
[3] デジタル情報への過度の依存は、この身体性を伴う「知恵」の領域を痩せ細らせる危険をはらむ。指先一つで答えが手に入る環境は、私たちから問い続ける粘り強さや、答えのない状況に耐える思考の持久力を奪いかねない。検索結果の上位に表示される、誰かが要約した「正解」らしきものを鵜呑《うの》みにし、自らの頭と身体で考えることを放棄してしまう。その結果、私たちの知識は、傍線部②表層的で均質化されたものへと劣化していく。誰もが同じ情報源から同じような「正解」を引き出す世界では、独自の視点や創造的な発想が生まれる土壌は失われていくだろう。
[4] もちろん、デジタル・アーカイブの恩恵を否定するのは、時代錯誤というほかない。その圧倒的な利便性と情報へのアクセシビリティは、知の民主化に大きく貢献した。問題は、私たちがその利便性におぼれ、知の獲得様式をデジタル情報処理に一元化してしまうことにある。重要なのは、二つの「知」の様式を対立させるのではなく、それらをいかにして統合し、往還するかである。
[5] デジタルで得た情報をきっかけに、実際にその場所を訪れてみる。文献で学んだ理論を、自らの手足を動かして実践してみる。そうした身体的経験を通じて得た実感や疑問を、再びデジタルの広大な海へと持ち帰り、異なる視点と照らし合わせる。この指先から始まる「知」と、足元から始まる「知」との間の、絶え間ない往復運動の中にこそ、情報化社会における真に豊かな知のあり方が見出せるのではないだろうか。
【注1】フィールドワーク:研究対象となる場所や人々の元へ直接赴いて行う調査・研究活動。
資料:大学生を対象とした学習方法に関するアンケート調査(複数回答可)
質問:レポート作成や試験勉強の際、あなたは主にどのような方法で情報を収集し、学習を進めますか?
| 順位 | 学習方法 | 回答率(2015年) | 回答率(2025年) | 増減ポイント |
|---|---|---|---|---|
| 1 | インターネットでの検索(検索エンジン、百科事典サイト等) | 85.2% | 98.5% | +13.3 |
| 2 | 授業で配布された資料・レジュメの確認 | 78.6% | 82.3% | +3.7 |
| 3 | 図書館で専門書や関連書籍を探して読む | 65.7% | 40.1% | -25.6 |
| 4 | 友人・知人とのディスカッションや情報交換 | 55.4% | 38.6% | -16.8 |
| 5 | 担当教員や専門家に直接質問に行く | 25.1% | 8.9% | -16.2 |
| 6 | 関連する施設への見学や、実験・観察を行う | 15.3% | 4.2% | -11.1 |
傍線部①「個人の生きた経験に根差した『知恵』」とは、どのようなものか。本文の趣旨に照らして最も適切な説明を一つ選べ。
傍線部②「表層的で均質化されたものへと劣化していく」と筆者が懸念するのはなぜか。その理由として最も適切なものを一つ選べ。
本文で筆者が懸念している「知」の変容について、資料のアンケート結果から読み取れる状況として最も適切なものを一つ選べ。
本文の趣旨として最も適切なものを一つ選べ。