インクの染み
[1] スマートフォンのメモアプリに、日々の出来事を入力する。変換は正確で、誤字はすぐに修正できる。便利で、合理的だ。私も長年、そうやって日々の記録をつけていた。しかし、ある日、古い書棚の奥から、学生時代につけていた手書きの日記帳を見つけた。インクの掠《かす》れた文字、ところどころにある修正液の跡、ページの隅に描いた意味のない落書き。傍線部①それらは、単なる文字情報の記録以上の、何かを雄弁に物語っていた。
[2] デジタルの文字は、どこまでも均質で、温度がない。昨日の文字も、一年前の文字も、同じフォントで整然と並んでいるだけだ。しかし、手書きの文字には、その時の自分の感情が滲《にじ》み出ている。焦って書いた乱れた文字、嬉しくて弾むような筆跡、悲しくて力の抜けた線。ページをめくっていくと、まるでタイムマシンのように、その日の自分の気持ちが生々しく蘇《よみがえ》ってくる。これは、デジタル記録では決して味わえない感覚だった。
[3] その日を境に、私は再び、万年筆で日記をつけ始めた。もちろん、スマートフォンほど手軽ではない。変換ミスを自動で直してはくれないし、書き間違えれば線を引いて消すしかない。しかし、その不便さこそが、思考を深めるための大切な「間」になっていることに気づいた。どの言葉を選ぼうか、どんな表現をしようか。インクが紙に染みていくのを待ちながら、ゆっくりと自分と対話する時間。それは、効率を求める日常の中では得がたい、贅沢なひとときだ。
[4] 傍線部②手書きの日記は、完成された「記録」である前に、思考の「過程」そのものなのだと思う。綺麗に整えられたデジタルテキストが、レストランで出される完成品の料理だとしたら、手書きの日記は、食材を刻み、鍋で煮込む、調理のプロセスそのものだ。そこには、迷いや発見、思いがけない味の変化といった、過程の豊かさが詰まっている。
[5] 今日も一日が終わり、私は机に向かう。万年筆のキャップを外し、まっさらなページに今日のインクの染みを一つ、落としていく。それは、未来の自分に宛てた、今日の私の心の生きた証なのである。
資料:筆者が再び日記をつけ始める際に決めたルール
傍線部①「それらは、単なる文字情報の記録以上の、何かを雄弁に物語っていた」とあるが、「何か」とはどのようなことか。最も適切なものを一つ選べ。
第[2]段落の「これ」が指す内容として最も適切なものを一つ選べ。
傍線部②「手書きの日記は、完成された『記録』である前に、思考の『過程』そのもの」という筆者の考えについて、その後の比喩表現を踏まえて説明したものとして、最も適切なものを一つ選べ。
資料の「わたしのルール」から、筆者が手書きの日記をどのようなものとして捉え、続けようとしているかがうかがえる。その姿勢として最も適切なものを一つ選べ。
インクの染み
[1] スマートフォンのメモアプリに、日々の出来事を入力する。変換は正確で、誤字はすぐに修正できる。便利で、合理的だ。私も長年、そうやって日々の記録をつけていた。しかし、ある日、古い書棚の奥から、学生時代につけていた手書きの日記帳を見つけた。インクの掠《かす》れた文字、ところどころにある修正液の跡、ページの隅に描いた意味のない落書き。傍線部①それらは、単なる文字情報の記録以上の、何かを雄弁に物語っていた。
[2] デジタルの文字は、どこまでも均質で、温度がない。昨日の文字も、一年前の文字も、同じフォントで整然と並んでいるだけだ。しかし、手書きの文字には、その時の自分の感情が滲《にじ》み出ている。焦って書いた乱れた文字、嬉しくて弾むような筆跡、悲しくて力の抜けた線。ページをめくっていくと、まるでタイムマシンのように、その日の自分の気持ちが生々しく蘇《よみがえ》ってくる。これは、デジタル記録では決して味わえない感覚だった。
[3] その日を境に、私は再び、万年筆で日記をつけ始めた。もちろん、スマートフォンほど手軽ではない。変換ミスを自動で直してはくれないし、書き間違えれば線を引いて消すしかない。しかし、その不便さこそが、思考を深めるための大切な「間」になっていることに気づいた。どの言葉を選ぼうか、どんな表現をしようか。インクが紙に染みていくのを待ちながら、ゆっくりと自分と対話する時間。それは、効率を求める日常の中では得がたい、贅沢なひとときだ。
[4] 傍線部②手書きの日記は、完成された「記録」である前に、思考の「過程」そのものなのだと思う。綺麗に整えられたデジタルテキストが、レストランで出される完成品の料理だとしたら、手書きの日記は、食材を刻み、鍋で煮込む、調理のプロセスそのものだ。そこには、迷いや発見、思いがけない味の変化といった、過程の豊かさが詰まっている。
[5] 今日も一日が終わり、私は机に向かう。万年筆のキャップを外し、まっさらなページに今日のインクの染みを一つ、落としていく。それは、未来の自分に宛てた、今日の私の心の生きた証なのである。
資料:筆者が再び日記をつけ始める際に決めたルール
傍線部①「それらは、単なる文字情報の記録以上の、何かを雄弁に物語っていた」とあるが、「何か」とはどのようなことか。最も適切なものを一つ選べ。
第[2]段落の「これ」が指す内容として最も適切なものを一つ選べ。
傍線部②「手書きの日記は、完成された『記録』である前に、思考の『過程』そのもの」という筆者の考えについて、その後の比喩表現を踏まえて説明したものとして、最も適切なものを一つ選べ。
資料の「わたしのルール」から、筆者が手書きの日記をどのようなものとして捉え、続けようとしているかがうかがえる。その姿勢として最も適切なものを一つ選べ。