現代文
都市空間における嗅覚の役割と「嗅景」のデザイン
普通
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現代文
都市空間における嗅覚の役割と「嗅景」のデザイン
普通
匂いがほどく街の記憶
[1] 私たちは都市を、写真や地図、あるいは統計データといった視覚情報で理解しようと試みる。しかし、その場所に確かに滞在したという身体的な実感は、しばしば匂いによって不意に呼び戻されることがある。雨上がりのアスファルト、早朝のパン屋から漂う香り、秋の街路樹が放つ甘く切ない匂い。視覚情報が空間の輪郭を明確に与えるのに対し、嗅覚は過去と現在を分断する時間の層をいとも簡単に折りたたんでしまうのだ。だからこそ私は、景観の整備を論じる際に、この「匂い」という見過ごされがちな手がかりを、もっと意識的に織り込むべきだと考えている。
[2] とはいえ、匂いの扱いはきわめて慎重さを要する。それは、視覚や聴覚の情報と異なり、個人の意思で遮断することが難しいからだ。強い人工香料は、人によっては疲労や頭痛を誘発するアレルゲンとなりうるし、文化や生活習慣によって、ある匂いが「快」と受け取られるか「不快」と受け取られるかも大きく異なる。傍線部① 匂いとは、空間を彩る華美な装飾ではなく、個々人の記憶の針を合わせるための、微小で繊細な合図なのである。そのささやかな働きを信頼するならば、設計者は、濃度や時間帯、そして場所の文脈を深く読み解き、香りをそっと「置く」ような謙虚な姿勢を求められる。
[3] 私は以前、ある街で市民ボランティアと共に「嗅景《こうけい》【注1】マップ」と名付けた地図を作る活動を行ったことがある。朝の市場に積まれた柑橘類の箱が放つ香り、古い喫茶店が並ぶ路地から漏れる焙煎の煙、川辺に漂う藻の湿った匂い──そうした季節や時間ごとに立ち現れる、その街固有の香りの手がかりを記録していくのだ。この活動から発展し、地元の祭りの期間だけ、一軒のパン屋がパンの焼成【注2】時間を三十分早め、子どもたちの通学路に香ばしい匂いの帯が流れるようにするというささやかな実験が行われた。これが、人々の動線を強制することなく、その街の記憶をさりげなく手渡すという試みだった。
[4] その際、私たちは匂いを新たに導入すること以上に、まず匂いを「乱さない」配慮を徹底した。具体的には、図書館前や病院通りといった場所を「無香エリア」として明確に定め、アレルギーを持つ人への情報提供を徹底した。また、飲食店の排気の向きを歩道と逆側へ統一する、ごみ収集の時間を早朝に設定するなど、不快な匂いを抑制する基盤づくりを優先したのである。
[5] 実験の後、商店会への聞き取り調査では、「香りをきっかけに、これまで入ったことのなかった店でパンを買った」という肯定的な感想と共に、「日によっては少し甘い香りが強すぎると感じた」という貴重な指摘が寄せられた。この結果を踏まえ、私は、均質な香りで街全体を包み込むという安易な誘惑を退け、その日その時で移ろいゆく匂いの「変化」や「まだらさ」こそを尊重すべきだという方針を、改めて明確にした。
[6] 都市は、時に一編の楽譜に喩えられる。美しい旋律(景観)だけでは音楽は単調になり、豊かな響きのためには休符(静けさ)や和音(多様な要素の重なり)が不可欠だ。匂いとは、その楽譜の中で響きの配置をそっと知らせる演奏記号のようなものである。それは、私たちの過去の体験と現在の歩みを結びつけ、都市という名の音楽に、奥行きと深みを与える繊細な媒介なのである。
【注1】嗅景:匂いによって形づくられる、ある場所の景観や雰囲気に対する印象。
【注2】焼成:パンや菓子などをオーブンで焼き上げること。
補助資料:市民ボランティアグループの活動記録とアンケート結果
【活動の基本方針メモ】
【具体的な施策の記録】
【試行後のアンケート結果(商店会員・来街者対象, n=60)】
| 質問項目 | そう思う | ややそう思う | あまり思わない | 全く思わない |
|---|---|---|---|---|
| Q1. 街の匂いを意識することで、これまで気づかなかった街の魅力や記憶を思い出すきっかけになったか。 | 26 | 12 | 12 | 10 |
| Q2. 強い人工的な香りが苦手だと感じるか。 | 31 | 10 | 11 | 8 |
本文全体の趣旨として最も適切なものを一つ選べ。
[3]段落の「これ」が指す内容として最も適切なものを一つ選べ。
傍線部①「匂いとは、空間を彩る華美な装飾ではなく、個々人の記憶の針を合わせるための、微小で繊細な合図なのである」とあるが、どういうことか。その説明として最も適切なものを一つ選べ。
本文と補助資料から読み取れることとして、最も適切なものを一つ選べ。
本文の内容に合致するものを、次のア~エの中から二つ選んだ組み合わせとして最も適切なものを、後の中から一つ選べ。
匂いがほどく街の記憶
[1] 私たちは都市を、写真や地図、あるいは統計データといった視覚情報で理解しようと試みる。しかし、その場所に確かに滞在したという身体的な実感は、しばしば匂いによって不意に呼び戻されることがある。雨上がりのアスファルト、早朝のパン屋から漂う香り、秋の街路樹が放つ甘く切ない匂い。視覚情報が空間の輪郭を明確に与えるのに対し、嗅覚は過去と現在を分断する時間の層をいとも簡単に折りたたんでしまうのだ。だからこそ私は、景観の整備を論じる際に、この「匂い」という見過ごされがちな手がかりを、もっと意識的に織り込むべきだと考えている。
[2] とはいえ、匂いの扱いはきわめて慎重さを要する。それは、視覚や聴覚の情報と異なり、個人の意思で遮断することが難しいからだ。強い人工香料は、人によっては疲労や頭痛を誘発するアレルゲンとなりうるし、文化や生活習慣によって、ある匂いが「快」と受け取られるか「不快」と受け取られるかも大きく異なる。傍線部① 匂いとは、空間を彩る華美な装飾ではなく、個々人の記憶の針を合わせるための、微小で繊細な合図なのである。そのささやかな働きを信頼するならば、設計者は、濃度や時間帯、そして場所の文脈を深く読み解き、香りをそっと「置く」ような謙虚な姿勢を求められる。
[3] 私は以前、ある街で市民ボランティアと共に「嗅景《こうけい》【注1】マップ」と名付けた地図を作る活動を行ったことがある。朝の市場に積まれた柑橘類の箱が放つ香り、古い喫茶店が並ぶ路地から漏れる焙煎の煙、川辺に漂う藻の湿った匂い──そうした季節や時間ごとに立ち現れる、その街固有の香りの手がかりを記録していくのだ。この活動から発展し、地元の祭りの期間だけ、一軒のパン屋がパンの焼成【注2】時間を三十分早め、子どもたちの通学路に香ばしい匂いの帯が流れるようにするというささやかな実験が行われた。これが、人々の動線を強制することなく、その街の記憶をさりげなく手渡すという試みだった。
[4] その際、私たちは匂いを新たに導入すること以上に、まず匂いを「乱さない」配慮を徹底した。具体的には、図書館前や病院通りといった場所を「無香エリア」として明確に定め、アレルギーを持つ人への情報提供を徹底した。また、飲食店の排気の向きを歩道と逆側へ統一する、ごみ収集の時間を早朝に設定するなど、不快な匂いを抑制する基盤づくりを優先したのである。
[5] 実験の後、商店会への聞き取り調査では、「香りをきっかけに、これまで入ったことのなかった店でパンを買った」という肯定的な感想と共に、「日によっては少し甘い香りが強すぎると感じた」という貴重な指摘が寄せられた。この結果を踏まえ、私は、均質な香りで街全体を包み込むという安易な誘惑を退け、その日その時で移ろいゆく匂いの「変化」や「まだらさ」こそを尊重すべきだという方針を、改めて明確にした。
[6] 都市は、時に一編の楽譜に喩えられる。美しい旋律(景観)だけでは音楽は単調になり、豊かな響きのためには休符(静けさ)や和音(多様な要素の重なり)が不可欠だ。匂いとは、その楽譜の中で響きの配置をそっと知らせる演奏記号のようなものである。それは、私たちの過去の体験と現在の歩みを結びつけ、都市という名の音楽に、奥行きと深みを与える繊細な媒介なのである。
【注1】嗅景:匂いによって形づくられる、ある場所の景観や雰囲気に対する印象。
【注2】焼成:パンや菓子などをオーブンで焼き上げること。
補助資料:市民ボランティアグループの活動記録とアンケート結果
【活動の基本方針メモ】
【具体的な施策の記録】
【試行後のアンケート結果(商店会員・来街者対象, n=60)】
| 質問項目 | そう思う | ややそう思う | あまり思わない | 全く思わない |
|---|---|---|---|---|
| Q1. 街の匂いを意識することで、これまで気づかなかった街の魅力や記憶を思い出すきっかけになったか。 | 26 | 12 | 12 | 10 |
| Q2. 強い人工的な香りが苦手だと感じるか。 | 31 | 10 | 11 | 8 |
本文全体の趣旨として最も適切なものを一つ選べ。
[3]段落の「これ」が指す内容として最も適切なものを一つ選べ。
傍線部①「匂いとは、空間を彩る華美な装飾ではなく、個々人の記憶の針を合わせるための、微小で繊細な合図なのである」とあるが、どういうことか。その説明として最も適切なものを一つ選べ。
本文と補助資料から読み取れることとして、最も適切なものを一つ選べ。
本文の内容に合致するものを、次のア~エの中から二つ選んだ組み合わせとして最も適切なものを、後の中から一つ選べ。